人類学
「私は偶然、この国に生まれた。
生まれて、いつのまにか日本語をしゃべるようになり、この国において教育をうけ、この国の歴史や風土にたいして一種の愛着をもつにいたったが、しかしそれは偶然ということであって、もし私が別の国に生まれておれば、その国で同様の愛着をその歴史や風土にもったにちがいない。
これは作家の司馬遼太郎さんの言葉ですが、私も同様に思っています。


だからこそ、私にとって人類学は単なる学問ではありません。それは私がこの世界で生き抜くための「レンズ」である理由です。人類学は私たちを歴史や生物学の境界を越えて連れ出し、私たちが「当たり前(常識)」と呼ぶものを問い直すように迫ります。それは、私たちが「なぜかつて存在したのか」と「なぜ今そのように世界を見ているのか」という点を結びつけ、バラバラに引き離すのではなく、ひとつの点として繋いでくれるのです。

生物学的な真実:
私は生物人類学という学問分野に惹かれます。なぜなら、文化と生物学(身体)の間にある、否定しようのない相互作用(フィードバックループ)を明らかにしてくれるからです。

たとえば人間の顔の進化について考えてみてください:
私たちの祖先が火を操り料理を始めたとき、巨大で頑丈な顎で、食べ物を噛み砕く必要はなくなったのです。そして顎が小さくなったことで、脳が大きく拡大するために必要な物理的空間が(頭蓋の中に)生まれたのです。

私たちの「文化的選択」が文字通り私たちの「生物学的な身体」を彫刻してきたのです。

文字で書かれた歴史は書き換えることができますが、私たちの骨やDNA、そして人間の動きの記憶は、決して改ざんできない真実を宿しています。


合気道という実験室:

私はこの知恵を教科書に閉じ込められたままにしておくわけにはいけませんでした。自分で試し、感じる必要がありました――そして、その渇望こそが、私を合気道の畳へと導いたのです。

人類学が広大で見えない知恵を解き明かすのだとすれば、合気道は私がそれを「体現」する場所です。私は人類史という抽象的な知識をすくいあげ、自分に真に属する真の実験室——すなわち、自らの「血と肉」のなかに繋ぎ止めます。知性と、内臓に響くような身体感覚(直感)を融合させること、それこそが私の生涯における実践(修行)なのです。

畳に足を踏み入れるたびに、私は究極の問いを探求しています。
「私たちはどこから来たのか、そしてなぜ、この特定の心と身体を携えているのか?」
道場の上で、私はその古代から続く人類の知恵に命を吹き込んでいるのです。